まち歩き企画第三弾 in茗荷谷

こんかいの問い
どうして茗荷谷には学校が多いの?

地形と路地が入り組む地区

今回はwebサイト等の作成を民泊に泊まって行う作業合宿の前企画としてまち歩きを行いました。まずは「小石川 かとう」の魚定食で腹ごしらえをして、茗荷谷駅前をスタート。地下鉄が谷沿いの地上を走る駅周辺の地形を見て、「茗荷谷」という名前の由来に考えを巡らせていました。
今回まち歩きを行った茗荷谷は、お茶の水女子大学や筑波大学とその附属学校をはじめ、拓殖大学、跡見学園女子大学等、多くの学校が林立しています。どうしてこんなに学校が多いのだろうと考えながら、まずは湯立坂を下ります。早速同じようにまち歩きをしている女子大生と思われる集団を発見しましたが、私たちとは別方向に向かいます。

一周した先には…?

湯立坂を降りた小石川地区は印刷業が盛んな町であったらしく、裏通りには今でも多くの小規模な印刷工場が軒を連ねている箇所があります。印刷が完了した出版物が軒先に並ぶ光景は、この町の独特な雰囲気を特徴づけているような気がしました。またこの一帯の住宅は斜面上に位置しており、住居の入り口や道路形状にも様々な工夫が見られました。
播磨坂まで来ると雰囲気はまた大きく変わり、中央分離帯にあたる位置に帯状の公園が存在する広々とした通りを登って行きます。登り切った先、春日通りとの交差点で信号待ちをしていると、冒頭の女子大生集団が再び交差点の向かい側に。同じ時間に複数の団体が同じようにまち歩きをしていたという奇遇さに驚きましたが、このような状況が生まれたことも、この街の面白さを表している1つの例ではないでしょうか。

もとは弾薬庫だった一帯

再び茗荷谷駅に戻ってきた一行は、今回の作業合宿の舞台である護国寺に向かって歩きます。ちょうど高校生の下校時間と重なったようで、跡見学園の正門からは多くの制服姿の学生が出てきていました。ところでまだ我々は学校が多い理由についての手がかりを得られていないが大丈夫なんだろうか、そんな考えも頭を過ぎります。
この答えは文京区に数多くある旧町名看板に記載されていました。曰く、もとは安藤家(坂下門外の変で襲撃された老中・安藤信正が有名)の下屋敷で、明治時代になって陸軍弾薬庫が設置されたが、昭和初期に東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)が移るなどし、最終的にこの跡地に多くの学校が林立したとのことです。
しかしこの看板を見て納得することができたのはメンバーの半分のみ。残りの半分は近くの不二家を見つけて一目散に入ってしまいました。この後に控える作業合宿に備えてロールケーキで甘味を得た一同。今回の我々の活動はまだまだ続きます。

こんかいの答え
弾薬庫跡の広い敷地を活かして文教のまちが作られたから